「スピっている」

Essay

口内炎ができると、「黙れ」という意味だろうかと考える。

そんなことを言っているとまた「スピっている」と言われてしまうだろうか。

そもそも、この世に生を受けた時点で私たちはスピリチュアルな存在であって、

スピリチュアルについて考えないことのほうが不自然である。

「スピやん」と言われると、対義語を教えてくれと思う。

これは「スピ」。じゃあそれはなに?と思う。

そもそも人間が認知しているものだけでこの世が構成されていると思い込んでいるのは甚だ傲慢であると思うし、

逆に認知しているものがそこにあって当然であるというのもまたなんというか、違う気がする。

それに、元プランクトンでまだそこそこの歴史しかない「人間」という生き物が

理解できるorできないの範疇で「スピリチュアル」という存在に対し議論を交わしていること自体おかしな話だと思っている。

この世には、私たちの想像の遥か先にある「何か」が存在しているはずだ。

現実も夢も空想も、境目はなく、はたまたその全てが存在しないことも視野に入れている。

最近は、「全てにおいて基本的にはまぁどうでもいい」というフェーズに入っている。

人間関係においては特にそうだ。

嫌な人に嫌なことを言われたところで何も感じない。

むしろ辻褄が合っていると思う。

嫌な人だから嫌なことを言ってくる。それだけの話だ。

嫌な人ではないけれど、価値観の違いから摩擦が生じ、

立場を利用して意見を押し付けてくる人のほうが苦手だ。

だけど嫌な人のほうが圧倒的に嫌いである。

そんなことを時々考えるけれど、本当は双方心底どうでもいい。

健康な身体があって、家族もみんな健やかに暮らしている。

仕事があって、友達がいて、家があって、食べるものがあって、

蛇口をひねれば水が出て、当たり前に部屋は涼しくて、

何不自由なく暮らしていられるのだから。

嫌なこと嫌なもの嫌な人にフォーカスする必要がなく、

よって、「どうでもいい」となるのだ。

とはいえ、毎日湯船にたっぷりの塩を入れている。

その日に浴びた悪いものを全て取っ払いたい。

どうでもいいからといって、放置してはいけないのだ。

というよりは、毎日の塩風呂ケアがあるからこそ

日々の小さなストレスもどうでもいいこととして解消できているのだと思っている。

中学生の頃、宇宙の果てについて考えを巡らせていたら体調が悪くなったことがある。

あの時は完全にスピっていた。あれはよくない。

だけど本当は今もあまり変わらない。形が変わっただけだ。

少なくとも宇宙の果てなんて知る由もなく、「どうでもいい」と思っている。

考えを巡らせることも、考えるのをやめることも、

どちらも同じ「スピっている」状態であると思う。

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